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茅の輪くぐりの起源と意味 ― 蘇民将来説話から読み解く夏越の大祓


はじめに

六月三十日、一年の半分が過ぎる日に行われる「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」。

多くの神社では、この日に合わせて「茅の輪くぐり」が行われます。
茅(チガヤ)という植物で作った大きな輪を、定められた作法でくぐることで、半年間に積もった罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈る神事です。

この茅の輪くぐりには、千年以上前の文献にまで遡る、はっきりとした由来があります。
この記事では、その起源説話を原文から確認して紹介します。


一 起源説話 ― 備後国風土記逸文

茅の輪くぐりの由来として知られているのが、「蘇民将来(そみんしょうらい)」の説話です。

この説話の最も古い記録は、奈良時代に編纂されたとされる『備後国風土記』にあります。
風土記そのものは現存していませんが、鎌倉時代に卜部兼方が記した『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』に、その一節が引用される形で伝わりました。
このように後世の書物への引用によってのみ伝わる文章を「逸文」と呼びます。

原文の読み下し文を確認してみましょう。

備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。

昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。
その所に将来(しゃうらい)二人ありき。
兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒(にぎは)ひて、屋倉一百ありき。

ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来貸し奉りき。
すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。

後に、年を経て、八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、
「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。
蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。

即ち詔りたまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。
詔の随(まにま)に着けしむるに、即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。

即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。
後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。

――『釈日本紀』巻七所引「備後国風土記」逸文

裕福な弟が宿を貸さず、貧しい兄・蘇民将来が粟の食事でもてなした。

その礒いとして、神は蘇民将来の子孫に茅の輪を授け、「蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰につければ疫病を免れる」と告げました。この一節が、現在の茅の輪くぐりの直接の起源です。

立命館大学の出岡宏氏は、この説話の根底にある信仰について、次のように位置づけています。

「蘇民将来符の根底にある古層の信仰とは、備後という地における土着のスサノヲの信仰である」
――出岡宏「蘇民将来符の淵源をめぐって」(2023年)


二 蘇民将来符の広がり ― 全国に残る考古学的証拠

この説話に基づく信仰は、文献だけでなく、考古学的な発見によっても裏付けられています。

琉球大学の山里純一氏の調査によると、京都市の壬生寺境内遺跡からは、九世紀初頭のものと推定される蘇民将来符の木簡が出土しており、長らく「最古の蘇民将来符」とされてきました。
ところが二〇〇一年、長岡京右京六条二坊六町の発掘調査で、表裏に次の文言が記された木簡が見つかります。

「蘇民将来之子孫者」 ――長岡京跡出土木簡(七八四~七九四年)

この発見により、蘇民将来の名を記した護符が、すでに奈良時代末期の長岡京の時代から用いられていたことが明らかになりました。

このような蘇民将来符は、新潟・茨城・静岡・京都・大阪・兵庫・三重・和歌山・群馬・神奈川・埼玉の各府県、三十余の遺跡から、これまでに五十数点出土しています。

多くは「蘇民将来之子孫宅也」のような文言を墨書したもので、現在も青森県から長崎県壱岐島まで、門口に吊るしたり田畑に立てたりする習俗として広く伝わっています。

山里氏の報告には、鹿児島県のトカラ列島・悪石島に伝わる興味深い事例も紹介されています。旧暦一月六日の「お日待ち」という行事では、家族ひとりにつき一枚、次のような札が配られるといいます。

「蘇民生来子孫繁盛也」 ――悪石島のお日待ちで配られる札(山里純一氏調査)

「将来」が「生来」に変わっているなど、地域ごとに少しずつ形を変えながらも、蘇民将来の名は、九州の南端の島々にまで、確かに伝わっていたことがわかります。


三 牛頭天王・祇園信仰とのつながり

この説話を考えるうえで欠かせないのが、京都・八坂神社(かつての祇園社)との関係です。

出岡氏の研究によれば、〈逸文〉に登場する武塔神は、後世「祇園牛頭天王縁起」に語られる牛頭天王と、ほぼ同じ構造を持つ物語の主人公とされています。
牛頭天王の縁起でも、貧しい蘇民将来が旅の神をもてなし、宿を貸さなかった古単(巨旦)長者の一族が滅ぼされる中、蘇民将来の娘だけが助けられたと語られます。
出岡氏が引用する立命館大学・鈴木耕太郎氏の指摘を借りれば、こうした構造の一致は次のように要約されます。

「登場人物の名前を変えれば、逸文の内容はそのまま牛頭天王縁起のプロット」
――鈴木耕太郎(出岡宏「蘇民将来符の淵源をめぐって」2023年、より引用)

八坂神社は、明治の神仏判然令によって祭神を素戔嗚尊(スサノヲ)とする神社へ改められましたが、それ以前は牛頭天王を祀る祇園社として広く信仰されていました。
出岡氏は、この説話の根底に、龍神・水神への信仰と、それと結びついた地域の祖神への信仰があったのではないかと論じています。
武塔神が南海の神の娘を娶り、八人の子をもうけたという物語の構造そのものに、龍神の系譜が示唆されているというのです。


四 宮中・伊勢神宮における歴史的な変遷

茅の輪くぐりは、民間の信仰だけでなく、宮中や伊勢神宮の儀礼とも深く関わりながら、現在の形に育っていきました。

平安時代の宮中では、身体を撫でて穢れを移す「節折(よをり)」という行事と、大祓が併せて行われていましたが、後三条天皇の頃(十一世紀後半)を境に、いったん中絶します。
その後、節折に代わる形で「菅抜(すがぬき)の儀」という、輪をくぐる作法が宮中に登場しました。
伊勢神宮でも、鎌倉時代の記録『建久年中行事』に、「輪越(わごし)の神事」として、輪を三度くぐる作法が記されています。

明治四年、こうした宮中・神宮の儀礼は、古代の大祓・節折の形へ「再興」される一方で、菅抜の儀や輪越の神事はいったん廃止されました。
民間の蘇民将来信仰に基づく茅の輪くぐりは、こうした宮中儀礼の変遷とは別に、各地の神社の祭礼として独自に受け継がれ、現在のような、夏越の大祓に合わせて広く行われる神事として定着していきました。


五 現在の茅の輪くぐりの作法

現在、多くの神社で共通して行われている基本の作法は、次の通りです。

茅の輪の前で一礼し、左回り・右回り・左回りと、八の字を描くように三度くぐります。
その後、神前に進んで拝礼するのが一般的な流れです。
くぐる際に唱える言葉は神社によって異なり、「蘇民将来子孫也」と心の中で唱える例や、和歌を唱える例など、いくつかのかたちが伝わっています。


おわりに

茅の輪くぐりは、単なる夏の風物詩ではなく、千数百年前の説話と、それを支えてきた人々の祈りが、形を変えながら今に伝わってきたものです。

その由来を知ることは、毎年何気なく行っている所作の意味を、少し違った重みで受け取る機会になるのではないでしょうか。


参考文献

  • 『釈日本紀』巻七所引「備後国風土記」逸文(卜部兼方、鎌倉時代中期)
  • 出岡宏「蘇民将来符の淵源をめぐって」(2023年)
  • 山里純一「蘇民将来符と九字(四縦五横)符号」(琉球大学)
  • 東郷茂彦「近代における大祓式・大祓詞の再興と変容」(國學院大學学術情報リポジトリ、2017年)
  • 大森志郎「茅の輪行事の起源と意義」(1958年)
  • 大森志郎「茅の輪行事の文献と民俗」(1961年)
  • 三宅和朗「古代大祓の基礎的考察」(1990年)