2025年4月20日 宮崎神社 宮司
京都三大祭のひとつである葵祭は、約1,400年もの伝統を誇る京都を代表する行事です。新緑の季節に平安装束に身を包んだ総勢500名以上の行列が京都の街を練り歩く様は、まさに平安絵巻そのもの。本記事では、令和7年の葵祭について、その歴史や意義、見どころなどを詳しくご紹介します。
令和7年の葵祭の期間
令和7年5月15日(木)
上賀茂神社の年間で最も重要な祭儀「賀茂祭(葵祭)」が斎行されます。
当日の主な行程:
- 午前10時30分頃:京都御所を出発
- まず賀茂御祖神社(下鴨神社)へ向かい祭典を行います
- 午後3時30分頃:上賀茂神社に到着
- 午後6時頃:祭典終了予定
なお、5月初旬から様々な前儀が行われます:
- 5月1日:競馬足汰式(くらべうまあしぞろえしき)
- 5月3日:流鏑馬(やぶさめ)神事
- 5月4日:斎王代女人列御禊(みそぎ)神事
- 5月5日:賀茂競馬、歩射神事
- 5月12日:御蔭祭(みかげまつり)
葵祭の起源と意義
葵祭は、正式には「賀茂祭」と呼ばれ、下鴨神社(賀茂御祖神社)と上賀茂神社(賀茂別雷神社)の例祭です。
その起源は約1,400年前、欽明天皇の御代(540~571年)にまで遡ると云われています。
『賀茂旧記』によると、祭祀の起源は太古御祭神・賀茂別雷大神が神山に御光臨される際、神託により葵を飾り、馬を走らせ、神迎えの祭りを行ったことに始まるとされています。
また、欽明天皇の時代に国内で風雨が激しく五穀が実らなかった際、卜部伊吉若日子の占いにより賀茂大神の祟りとわかり、祭礼を行ったところ、風雨がおさまり五穀豊穣となったという伝承も残されています。
平安時代の弘仁10年(819年)には、朝廷の律令制度として最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行う国家的行事となりました。
当時、中祀として扱われたのは伊勢神宮と賀茂社のみという特別な位置づけでした。
当神社の年間祭典で最も重要な祭儀(例祭)で、遥か昔、欽明天皇の御世に祭の起源は遡ります。
今も国家の安泰や国民の安寧を祈られているようです。
現代においても、葵祭は単なる地域のお祭りではなく、国家の安泰と国民の安寧を祈願する重要な勅祭として執り行われています。
葵祭の全体構成
葵祭は大きく分けて3部構成となっています:
第1部:宮中の儀
かつては御所で天皇陛下の前で行われていました。
天皇陛下からのお供え物「幣帛(へいはく)」が唐櫃(からびつ)に納められ、勅使に託されます。
第2部:路頭の儀(行列)
一般の人々が目にする最も華やかな部分です。
平安装束に身を包んだ総勢500名以上、馬36頭、牛4頭の行列が、京都御所を出発し、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かいます。
行列の長さは約8キロにも及びます。
第3部:社頭の儀
下鴨・上賀茂両社に到着した際に行われる儀式です。
勅使が御祭文を奏上し御幣物を奉納し、神前で祭典が行われます。
さらに御馬の牽き回しや「東遊(あずまあそび)」の舞などが奉納されます。

また、葵祭の特徴として、行列が先に下鴨神社へ行き、その後上賀茂神社へ向かうことが挙げられます。こ
れは単に距離の問題ではなく、下鴨神社に上賀茂神社の神様のお母さんである玉依比売命(たまよりひめのみこと)と、おじいさんである賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られているためです。
まずお母さんのところでお祭りをしてから、息子である賀茂別雷大神のもとへ向かうという意味があるようです。
なぜ「葵」なのか?
賀茂祭が「葵祭」と呼ばれるようになったのは、江戸時代の元禄7年(1694年)に祭が再興されてから後のことです。
当日、内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾られることからこの名が付けられたと云われています。
使用される葵は「二葉葵(フタバアオイ)」と呼ばれる植物で、賀茂社の神紋でもあります。
実際には「葵桂(あおいかつら)」として、桂の小枝に二葉葵の葉を絡ませたものが用いられます。
葵の葉が祭で用いられるようになった理由については、賀茂別雷神が神山へ降臨された際の神託に由来するという説があります。
神託により奥山の賢木(さかき)を取り、種々の彩色を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったことが、当神社の祭祀の始まりとされているのです。
社殿に葵を飾り、祭の奉仕者が葵を身に付けるところから「葵祭」とも呼ばれるようになったようです。
毎年、葵祭で使用される葵は、両神社から御所に納められています。
勅使とは?勅使が差遣される意味
葵祭は「勅祭(ちょくさい)」と呼ばれる特別な祭りです。
勅祭とは天皇の命により行われる祭祀のことで、天皇の使者として「勅使(ちょくし)」が参列します。
普通の神社の祭りは地域の発展や氏子の安泰を祈願するものですが、勅祭は日本国全体の安泰や繁栄、五穀豊穣を祈る国家的な行事です。
勅使はその役割として、天皇の名代として神前で御祭文という祝詞(のりと)を奏上し、神前に供物を奉納します。
葵祭における勅使は、御祭文(ごさいもん)と呼ばれる赤い紙に書かれた祝詞を読み上げます。
宮司は勅使から御祭文と供物を受け取り、神前にお供えした後、「返祝詞(かえしのっと)」を勅使に奏上します。これは神様からの返答として、天皇のお祈りが確かに受け取られたことを伝えるものです。
勅使を通じて天皇と神が結びつけられるこの形式は、日本の神道における天皇の特別な地位を表しています。
葵祭のような勅祭を行う神社は限られており、賀茂社(上賀茂・下鴨)、春日大社、石清水八幡宮などがあり、この三社で行われる祭りは「日本三勅祭」と呼ばれています。
勅使の役割
- 天皇の名代として神社に参向する
- 神前で御祭文を奏上する
- 天皇からの供物を神前に奉納する
- 祭儀が終了すると天皇に報告を行う
神社に差遣される場合、勅使は原則として宮中祭祀を担当する掌典職が任じられ、天皇と等しく扱われるため、祭祀の中で最上の官位として敬われます。
勅使が差遣されることによって、祭りは単なる地域行事ではなく、国家の公式行事としての意味を持つのです。

葵祭の見どころ
葵祭の最大の見どころは、平安貴族装束をまとった華やかな「路頭の儀」(行列)です。特に注目すべき点をいくつかご紹介します:
斎王代とその行列
平安時代には賀茂社に奉仕した未婚の皇女「斎王」に代わる「斎王代」を中心とした女人列は、特に華やかです。五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)という十二単を身にまとい、腰輿(およよ)に乗って行列に加わります。1953年に再興された伝統です。
御所車(牛車)
薄紫色の藤の花の装飾を揺らしながら、車輪を回してゆっくり進む御所車は行列の中でもひときわ目を引く存在です。
上賀茂神社では、一ノ鳥居から行列が白砂の参道を進む様子は新緑の映えと相まって絶妙のコントラストを醸し出します。
また、二ノ鳥居内での勅使の御祭文奏上、牽馬、東遊などの儀が古儀のまま行われる様子は、平安時代の王朝絵巻を目の当たりにしているような体験ができます。
また、葵祭の見どころは行列だけではありません。5月初旬から行われる以下の前儀も見応えがあります:
- 流鏑馬神事(5月3日・下鴨神社):馬を走らせながら鏑矢を射る勇壮な姿は圧巻です
- 斎王代御禊の儀(5月4日):十二単に身を包んだ斎王代が身を清める神聖な儀式
- 賀茂競馬(5月5日・上賀茂神社):900年以上の歴史を持つ神事。境内の馬場で速さを競います
まとめ
葵祭は約1,400年もの歴史を持つ、京都を代表する伝統行事です。
単なる地域の祭りではなく、国家の安泰と五穀豊穣を祈る国家的な勅祭として今日まで大切に受け継がれてきました。
令和7年も5月15日に上賀茂神社・下鴨神社で盛大に執り行われます。
平安絵巻さながらの華やかな行列は、いにしえの王朝文化を今に伝える貴重な文化遺産です。新緑の美しい季節に、厳かな雰囲気の中で執り行われる葵祭を、ぜひご覧いただければと思います。
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